福島県南相馬市は地震と津波、そして原発事故の被害を受けた町。
そこで大学時代の友人が南相馬市役所職員として働いています。
震災直後から彼に電話し続けたがつながらず、テレビで津波が建物や田畑を飲み込む映像が流されるたび、万一の事態を想像して苦しい気持ちになっていました。3週間後にやっと連絡が取れてどれだけ安心したことか今でも覚えています。
そんな彼との再会を兼ねて、今なお放射能汚染の影響が心配される南相馬市を単独視察してきました。
JR福島駅からレンタカーに乗り、南相馬市へ。
途中の道路案内図では、原発事故によって警戒区域や避難区域に指定された町の名前をたくさん見かけました。
計画的避難区域に指定された飯舘村は、平日だというのに郵便局も店も工場も閉まっていて、人一人いませんでした。まさにゴーストタウンとなっていました。
南相馬市役所で友人と合流。
市役所前に設置されている放射線量掲示板は、1時間当たり0.62マイクロシーベルトと表示していました。
これは平常値より20~30倍も高い数値です。
友人がいつもポケットに入れている放射線量計。
避難区域近くでは0.90という高い数値を表していました。
いつも線量計を見つつ放射能の不安を感じながら暮らしているかと思うととてもやりきれません。
南相馬市馬事公苑にある車庫に設けられた「思い出の品縦覧会場」。(友人(写真右)と)
津波で流され発見された写真やアルバム、ランドセルなどがびっしりと並べられていました。
どの品からも持ち主を待っている気配を感じました。
福島第一原発に向かう国道6号線。
原発から半径20km地点では防護服を着た警察官が厳重に警戒し、住民であってもそれ以上入れません。
海岸から1キロ近く離れた南相馬市原町区の民家。
1階はもとより2階の窓も家財道具も津波で押し流されたようです。
凄まじい巨大津波の爪あとがあちこちに残っていました。
ここは相馬双葉漁港だったところです。
建物や漁船はほとんどなく、漁具は散乱していたものが山積みになっていました。
漁港の近くにあった牛島体育館。
周囲はがれき置き場になっていて、ダンプカーが列をなして大量のがれきを運び込み、ショベルカーが種類別に積み重ねていました。
南相馬市鹿島区に10月23日にオープンした仮設店舗「かしま福幸(ふっこう)商店街」。
復興に向けて多くの福と幸せが訪れるようにと名付けられたそうです。
警戒区域の南相馬市小高区や津波被害を受けた鹿島区の事業者らが入居した商店街には、食堂や洋品店、理容院、花や雑貨、接骨院などの店舗が並び賑わっていました。
震災や原発事故に負けない地域住民の復興への力強さを感じました。
友人の将棋の師匠が住んでいる鹿島区の仮設住宅に向かいました。
その80代のご夫婦は震災後も市の避難の説得に応じず、福島第一原発から十数キロの自宅に1ヶ月以上住み続けたそうで、その行動はニュースでも取り上げられました。
震災直後は電気も使えて不自由はなかったけど、3月末に突然停電。電力会社に抗議したが「国の方針なので」という返答。
冷蔵庫の食料は腐り、米を炊くプロパンガスも残りわずかとなったため、ご夫婦は避難を受け入れたそうです。
しかしご夫婦は、仮設住宅暮らしは非常に不便だし、ご主人にはガンや持病があり、仮設住宅に住むほうがかえって寿命が縮まると考え、早いうちに自宅に帰ると決意しているそうです。
今回の南相馬市現地視察で強く印象に残ったことは、放出し続ける放射能の影響や汚染に不安や恐怖を感じ、国や東電に対する怒りや苛立ちを抱えながらも、我が町の復興に取り組んで少しでも以前の暮らしを取り戻そうと懸命に努力している住民の皆さんの姿でした。
今後、地域に戻り住むことができるのかは、しっかりとした放射能測定と人体への影響を調査して見極めることが大前提であり、福島第一原発の早期収束と廃炉作業、除染とがれき処理、さらには住民に対する放射能の影響を診断する継続的な検診を実行し、大規模な復興政策を展開することが重要だと改めて痛感した視察でした。
最後に、今回の視察に同行してくれた友人に心から感謝します。